「日本の義務教育の原点を探る」
〇日本の義務教育の原点「咸宜園」
大分県日田市豆田町に日本遺産「史跡咸宜園」(平成27年認定)がある。ここは廣瀬淡窓(天明2~安政3、1782~1856)の私塾跡だが、淡窓は頼山陽、菅茶山とともに江戸後期の三大漢詩人の一人だ。淡窓は詩人として著名なだけではなく、近代日本の主要な人材を多数育てたことでも知られる。この咸宜園での教育制度を振り返ってみると、日本の義務教育の原点がここにあったことを知る。咸宜園を理解することは日本人固有の特性を再認識することにもつながる。
〇高野長英、大村益次郎も学んだ咸宜園
現在、様々な構築物が再建、整備されている「史跡咸宜園」だが、その一画に「秋風庵」という廣瀬淡窓自身も利用した家屋がある。この建物には、咸宜園に学び、後世に名を遺した塾生の名前が掲示されている。その数多の塾生の中でも、上段に大きく記されているのが高野長英(文化元~嘉永3、1804~1850)、大村益次郎(文政7~明治2、1824~1869)だ。高野長英は「蛮社の獄」(天保10、1844)で幕府のお尋ね者となり、逃亡生活を送りながらも落命した。大村益次郎は司馬遼太郎の歴史小説『花神』にも取り上げられ、靖国神社境内に銅像が屹立している。
その他、朝吹英二(王子製紙会長、三井合名会社理事長)、上野彦馬(坂本龍馬、高杉晋作を撮影した写真師)、清浦奎吾(司法、農商務、内務、総理大臣を歴任)、大楽源太郎(長州奇兵隊脱隊騒動、明治四年久留米藩難事件に関与)、長三洲(尊皇の志士、文部省学務局長)、平野五岳(大久保利通、松方正義からの明治政府入りを勧誘された僧侶)、廣瀬旭荘(淡窓の弟、大坂で私塾を開き適塾とも交流)、権藤可膳(医師、権藤成卿の系譜の一人)など、4000人といわれる門弟の一人一人を解説し始めたらキリが無いほどだ。
なぜ、九州の片田舎の私塾でありながら、これほどの人材を輩出したのか。それは、この咸宜園の教育制度が他の私塾には無い特性が備わっていたからだった。
〇咸宜園を開いた廣瀬淡窓とは
咸宜園を開いた廣瀬淡窓は天明2年(1782)4月11日、豊後日田(大分県日田市)の代官所御用商人「博多屋」の嫡男として生まれた。しかし、幼少から身体が弱かったので、家業は弟に譲り、自身は学問の世界に身を置いた。数えの16歳の時、福岡の亀井南冥の亀井塾に入塾した。淡窓は亀井南冥から教育者としての強い感化を受け、これが後の咸宜園運営にも影響を及ぼしている。数えの24歳、淡窓は故郷の日田で私塾を始めるが、徐々に近隣の青少年が集まってきた。
淡窓の教育の根本は、正しい行動をすれば天は報いてくれるという「敬天思想」にあるのが特徴だ。
ただ、生来、身体が弱く、文政8年(1825)12月には、前立腺肥大症から手術を受けている。執刀したのは亀井塾での同門である医師の権藤延陵だった。権藤延陵とは権藤成卿(制度学者、思想家)の祖父である。
〇咸宜園教育の特徴とは
私塾の咸宜園は吉田松陰の松下村塾(長州)、緒方洪庵の適塾(大坂)とともに三大私塾と呼ばれる。その咸宜園に入塾すると「三奪法」と呼ばれる三つの縛りを剥奪される。一つ目は身分、二つ目は学歴、三つ目は年齢だ。いわゆる「自由、平等、実力主義」を咸宜園は標榜する。「学びたい者を学ばせる」という教育方針から、この「三奪法」に加え、男女差もない。封建的身分制度の江戸時代、「三奪法」だけでも大きな問題になりそうだが、そこに女性の入塾も許可している。女性といっても尼僧だが、この女性の入塾については、淡窓も学んだ亀井塾でも女性の入塾を認めていたことから、淡窓も師である亀井南冥に従ったのだろう。
咸宜園では「月旦評」という成績表があった。毎月初めに、学問の進捗状況を一級から九級で評価する。最高位は九級だが、実力主義の咸宜園としては当然の制度といえば当然だろう。江戸時代、全国の各藩には藩校が設けられたが、この藩校に学べるのは武士だけであり、武士であっても玄関、控えの部屋などは家格によって厳格に区別されていた。女性が学ぶことなどはあり得ず、学びたい者を学ばせるという私塾の方針とは異なり、藩校は武士としての箔付けでしかなかった。学科も幕府の指示に従う限定的なものだった。
学科といえば、全国の藩校では数学は対象外の学問だった。数学は商人の学問として忌み嫌われており、数学を究める武士はごく稀だった。この数学を軽視したことが、江戸幕府の制度崩壊の一因と考える。
咸宜園では医師を志す者も多く、東日本と西日本では異なるが、西日本の医師は伝統的に西洋医学を導入していた。それだけに、実学の基礎をなす数学は欠かせないものだった。
〇情操教育、自治教育の咸宜園
廣瀬淡窓は詩人として著名だが、咸宜園での入塾生に対しても詩文に注力するよう指導していた。これは人の情を考えることにつながり、情操教育になるからだ。現代の学校教育における作文や読書感想文に置き換えてみれば詩文が有用であることが見えてくるだろう。
私塾である咸宜園では遠方からの入塾生が多かった。そのため塾生達は合宿生活を送っていた。ある意味、合宿によって塾生同士が切磋琢磨することにつながる。しかし、ここで咸宜園の特異なことは、学問上での不明点は先輩が後輩に指導するとなっていることだ。更に、成績評価では清掃、履き物を揃えることも評価要素となる。ただ、勉強ができれば良いというわけでなく、生活態度も評価対象に入っている。総合的な人間教育を施すことが咸宜園では当然の如く行なわれていたのだ。咸宜園では、この合宿生活での有名な言葉がある。「君は川流を汲め 我は薪を拾わん」だ。塾生各自が、自身に出来ることを率先して行なうという役割分担を認識している。これは、強制的に「働かされる」ということではなく、他の塾生の為にもなるというスローガンでもある。ここから、咸宜園の塾運営において「自治」という感覚が身についてくる。いわゆる「学園の自治」である。かつての大学紛争での「学園自治」とは根本的に意味が異なることが見えてくるだろう。
〇咸宜園の自治教育から考える
咸宜園の「自由、平等、実力主義」に加え「自治」という塾運営を見ていった時、制度というものが自発的に敷かれていることに気づく。果たして、この「自治」の考えは淡窓独自の考え方なのだろうか。筆者はここで、淡窓とも関係が深い権藤延陵の権藤家に伝わる「自治」を想起した。
廣瀬淡窓と権藤延陵は亀井南冥の亀井塾において同門であり、淡窓に施術をしたのが延陵であることは述べた。しかし、これだけではなく、権藤延陵は子息である長男伯恭の教育を淡窓に委ねた。淡窓は甥の廣瀬林外と共に伯恭を膝下に置いて教育した。淡窓は両名を双麒麟(二人の天才)と絶賛したが、惜しい事に伯恭は若死にだった。
しかし、淡窓は延陵との共通の弟子である別府可膳に権藤家を継ぐように命じた。権藤家に伝わる制度学を絶えさせてはならないとの考えからだった。咸宜園の「秋風庵」に掲げられる塾生の名前に権藤可膳の名前があることを述べたが、淡窓と延陵の深い信頼関係が読み取れるようだ。
ちなみに、この権藤可膳は号を松窓といい、権藤松窓とも称される。今も、権藤家の墓所(福岡県久留米市)には権藤松窓の墓碑が遺されている。
淡窓は権藤家の家学である制度学、自治民範を熟知していたのではと思えてならない。この点については、これからの研究に期待している。
尚、咸宜園はユネスコの世界遺産登録を目標にしている。






























