・いったい、人間とは
「これは、いったい、何なのだ・・・」。本書を手にした時、その分厚さ、重さに、訝った。いわゆる鈍器本といわれるものだが、それにしても1・8キロ、135万字、2段組1300ページ弱は、初めて手にした。昼寝の枕代わりもなり得るが、それでは著者に失礼になる。それというのも、タイトルが「命の嘆願書」だからだ。
本書は大東亜戦争(太平洋戦争)後、満洲等に展開していた旧日本軍、在留邦人がシベリア、モンゴルに抑留された実録。エピローグを含め全40章に渡り、旧ソ連軍、モンゴル軍に使役された日本人の史実が詰まっている。しかし、その内容は、まるで仏典か聖書の如く、人間の悪行から善行までが綴られている。
すでに、シベリア等の抑留記については多くの著作、記録が遺されている。評者も関心を抱いて抑留記録を読んできたが、本書の類いは初めて。現役の新聞記者が抑留者の記録を求め、厚生労働省の調査にも漏れた人々を探し出す物語だからだ。特に、広く知られる吉村隊の「暁に祈る事件」が朝日新聞記者による捏造であったなど、驚愕の事実が暴露される。
シベリア、モンゴルには約57万5千人が抑留され、約5万5千人が傷病死している。この数値は看過できない事実だが、その間隙を縫って真実が歪曲されている事に驚いた。それが、評者も感動のうちに読了した『収容所から来た遺書』の話だ。著者の辺見じゅんが感動を高めるため、意図的に事実と相違する記述をしていた。更には、遺族から預かった資料を紛失していたとは。「バカとアホウの騙し合い」だったのかと、嘆くばかりだった。
そんな中、久保昇、小林多美男、本木孝夫という三人の日本人の無私の生き様に、人間、捨てたものでは無いと大きな安堵を覚えた。本書を仏典、聖書に例えたのも、この自己犠牲の三者が中心に据えられるからだ。果たして、自身が同じ立場にある時、彼らのように生殺与奪権を握るソ連軍、モンゴル軍相手に正義の刃、嘆願書を突きつけることができるだろうか・・・逡巡する。
本書は、冒頭に述べた通り、通常の単行本10冊に匹敵する。なぜ、そこまで著者が固執するのかといえば、一人一人の命の重さは同じだからだ。その公平感を遺族の立場で考えた時、知り得た一人の記録を著者が路傍にうち捨てることができなかったからだ。
戦後の日本は、経済復興が国の重要命題だった。生きるため、多くの日本人がそれに従った。しかし、その成長の果て、人が人として生まれた意味、人格の成長を問う時代となった。その事を、本書は気づかせてくれる。戦争を引き起こすのも人間ならば、治めるのも人間。その過程において無辜の民が望まぬ死、病苦を受けなければならない。何のために、人は無益な争いを繰り広げるのか。「人権」などという綺麗事など、始めから存在しない世界を人はどう生きてきたのか。この人間ドラマを通じて、人の本質を知るべきと「鈍器本」は訴えている。無為の時間を過ごす前に、一日一ページでも良い、読み進んでいただきたい。